アルカサル城

イントロ

世界の名城の一つに選ばれ、おとぎ話に出てくるお城のモデルにもなったアルカサル城。スペイン史の中で重要なお城の一つです。

トラスタマラ朝、ブルボン王朝と、多くの王に愛された城です。 歴史は古く、紀元前にはケルト民族の城があった場所です。

セゴビア市の北端に位置し丁度岬の砦のような立地と2つの川に挟まれた格好の場所に聳えるアルカサル城は中世の時を超え、街を美しく飾る歴史遺跡となっています。

アルカサル城

  • 所在地:Plaza Reina Victoria Eugenia, s/n, 40003 Segovia
  • 電話:(+34) 921 46 07 59
  • 開館時間: 月曜日から日曜日 10:00-20:00
  • alcazardesegovia.com

美術・装飾

アルカサル城は外観からよく船に例えられます。街の最北端の岬、エレスマ川とクラモレス川の合流地点の石灰岩の上に建てられた城はオレンジの船体に青いマストを立てた軍艦のようです。 アルカサル城の前にある庭園内にはスペイン独立戦争(日本では半島戦争・スペイン反乱とも呼ばれるナポレオン率いるフランス軍との戦いです)の2人英雄「ダオイスとベラルデ」の彫像があります。セゴビア生まれのアニセント・マリナスの作品で1910年アルフォンソ13世により初披露されました。

環境・歴史

城の両側は大変美しい眺めが楽しめます。クラモレス川側はユダヤ人旧墓地、エレスマ川にはサマラマラ村とテンプル騎士団のベラ・クルス教会を見ることができます。
この城の歴史は古代ケルト時代まで遡ることができます。カトリックの支配となる11世紀以前はイスラム教徒とユダヤ教徒が、さらに以前はケルト人が入植していたようです。先史以前の遺跡もでる古い土地で、アルカサル城は古代ケルト人の城の跡を利用して建てられました。
その立地条件の良さが歴代のカスティジャ王に気に入られ代々の居城となりました。 ゴシック様式に建て直されたのはフアン2世とエンリケ4世の時代です。  アルカサル城にとって15世紀は特に華やかな時代でした。
1472年カトリック女王として知られるイザベルがカスティ-リャ王国の王として戴冠し、セゴビアはスペインの中心地になりました。
1764年にはカルロス3世は設置王立砲兵学校を創立して、アルカサル城を学校に寄贈しました。現在、アルカサル城に展示されている博物館の由来です。ちなみに現在も砲兵学校がセゴビアにあります。

歴代の王とアルカサル

アルカサル城は1862年の大火事で大半が焼け落ちるという悲劇に見舞われましたが、その後のアルフォンソ12世により1882年、建て直しが命じられ現在の姿に至ります。 城の塔にはそれぞれ特徴があります。北の塔はアルフォンソ10世の塔と呼ばれています。アルフォンソ10世は「エル・サビオ」つまり知恵の人と言う別名を持つ王で天文学を収めた王です。また最高の塔は80メートル。
この塔はセゴビアの有名な壁装飾が施され、フアン2世の塔と呼ばれています。他に12の塔が同じように美しい壁装飾を施されています。  塔の先端はその狭さと寒さから牢として使われたこともあります。特に貴族の牢として使われ、有名な囚人にドン・アルバロ・デ・ラ・ルナやドン・トルクワトなどがいます。
来客はフアン2世の塔の先端まで上ることができます。狭い螺旋階段は上り詰めるのが困難ですが、その見晴らしは素晴らしく、聖マルコス地区、サマラマラ村、大聖堂と街を一望できます。
アルカサル城内には、コンサートなどのイベントの開かれる鎧の中庭、時計の中庭、そして王立砲兵学校、旧宮殿の間、ガレー船の間、アヒメセスの広間、王の間、ムデハル様式の間、接見の間、女王の部屋、礼拝所などを見学でき、16世紀の前半世紀の作家ビアナ・デ・セガの祭壇画やサンティアゴ・ポストルの作品などを見ることができます。
そして幾何学模様で飾られた天井装飾の王の間では、アストゥリアス王国、レオン王国、カスティーリャ王国の歴代の王と女王ドン・ペラヨからフアナ女王までの肖像画を見ることができます。

ローマ水道橋:アクエドゥクト

イントロ

セゴビアを世界的に有名にするローマ水道橋:アクエドゥクト。

2000年の時を超え、街のシンボルとして人々に愛されてきました。この現代に残る奇跡の建造物は世界中から沢山の人々に賞賛されてきました。中世の頃から王令により国宝とされて、現代1985年UNESCOにより人類の文化遺産として指定されました。花崗岩のブロックを積み上げただけで建設された高さ28メートル、長さ16キロメートにも及ぶローマ水道橋:アクエドゥクトは現代に残る奇跡といえます。

現在残るローマ時代の遺跡として最も保存状態の良いものの一つとして数えられます。現代まで水路としてその機能性は失われることなく20世紀に入っても実際に使用されていました

  • 所在地:Plaza Azoguejo, s/n, 40001 Segovia
  • タイプ:歴史遺跡
  • 時代:ローマ時代・紀元1世紀後半から2世紀初頭
  • 観閲:パブリック
  • 備考:王立造幣局博物館に併設されたローマ水道橋説明センターでは水道橋の歴史や構造、建築方法などの詳しい説明をパネル展やマルチメディアで見ることが出来ます。
  • http://acueducto.turismodesegovia.com

背景

ローマ帝国がイベリア半島を属国化していったのは紀元前200年から西暦400年頃とされています。セゴビアはローマ帝国にとってサラゴサとメリダへのルートの中間に位置する重要な都市でありました。セゴビアにローマ帝国がやってきた時にはすでに先住民により水資源の殆どが占拠されていました。                            ローマ帝国にとって水資源の確保が一番の課題でありました。 アクエドゥクトの建設は幾つもの意味があったようです。 一つは水資源の確保。そしてこの水道橋を建設することでその水の独占と既得権益。もう一つの目的は水道橋を軸にした街の建設と支配。この偉大な建設を人々に見せつけることは帝国にとって非常に大きな政治的な意味がありました。                                                                                                      こうしてローマ水道橋:アクエドゥクトは1世紀ごろに建設が始まりました。水道橋建設は、先住民とローマ社会の融合という文脈の中で理解しなければなりません。こうして先住民は徐々にローマ化していったようです。ラテン語を読み書きしローマ風の習慣に慣れていきました。 水道橋の上方は貴族たちの屋敷で独占され街には少数の共同配水所がありました。                                                                                              建設の一番の目的は、山脈から都市へ水を引くことでしたが、それと同時に政治的プロパガンダの役割も担っていました。その証拠はアソゲホ広場の石碑に見ることが出来ます。当時アクエドゥクトの建設に資金提供した都市中央と周辺地域の政治家、著名人たちの署名を見ることが出来ます。                                           王立造幣局博物館に併設されたローマ水道橋説明センターでは、実際の建設の様子や各歴史遺物を豊富なパネルとマルチメディアで体験的に見ることが出来ます。

環境・歴史 周囲

花崗岩のブロックを積み上げるだけ、一切接着溶剤などを使わずに建設されました。 花崗岩はグアダラマ山脈や他の複数の場所から切り出され運ばれました。 。
その建築スタイルと考古学収集品 などから考察された最終的な建設年度は、1世紀の終わりから2世紀のはじめと言われていましたが、最新の研究では112年であるとの説が有力です。
中世何度か修繕作業と修飾作業が行われています。カトリック両王による古い水路の入れ替えと花崗岩ブロックの入れ替えがこれに当たります。これらの痕跡を現在も見ることが出来ます。
1884年10月11日に水道橋が国定記念物として宣言されました。

どのように建てられたのか?

建設に際しローマ人たちは、アーチ作るための木型を支える頑丈な足場を使いました。木型はアーチの両脇の迫石、アーチ中央の石(要石)をはめ込むためにアーチの内側に設置されました。また、アーチの両側にかかる荷重のバランスを取るために中央の要石は正確なくさび形に型どらなければなりませんでした。 今でも見ることのできる花崗岩ブロックに開けられた2つの穴は、大型の金属製ハサミで持ち上げるため必要なものでした。
このはさむ道具は釣り上げると石を挟み込み、石自体の荷重でしめつけ合い、決して外れないような工夫がされていました。
足場では他の職員グループが花崗岩ブロックの正しい位置の調整を金属テコ を使って行いました。最後に石工が石の各表面を切り出し、正しい形にして完成させました。
この遺跡建造には“調整技術”、“ブロックに見られる窪み”、“積彫石”などにローマ建設特有の特徴が見られます。
調整技術:花崗岩ブロックの上部と内部の角に見られる切り込み痕は最終的な位置に正確に石を積み上げるために鉄テコを差し込むのためににできたものです。
ブロックに見られる窪み :柱を構成する花崗岩ブロックには垂直の波上の傷跡が見られます。
積彫石 :花崗岩ブロックは交互に垂直に積み上げられています。 水道橋の花崗岩ブロックは下部の方が広くなっていて、高さを増すほど少しづつ小さくなっています。この構造により水道橋は自らの重みを支えることが出来ます。 花崗岩ブロックは交互に垂直に積み上げられています(整層積み=オプス・クアドラトゥム)。
モルタル、セメント、鉛などの接着剤を使用しておらず、花崗岩ブロックの加重だけで立てられています。機能
セゴビア水道橋は、歴史的に3つの 部分に分かれています。
• 郊外地区:水源と水を導き入れる場所-水源であるフリオ川と水道橋の開始地区
• 近郊地区:導水ー水源から街へ水を率いれる地区
• 都市地区:導水と配水ー街まで運んだ水を各家々に配水する地区ー現在歴史的建造物として見られる水道橋、地中の水路
給水はアセベダ渓谷のフリオ川の堰をとおして行われます。水は様々な場所を通り、傾斜を利用しセゴビアの街に届きます。
街に見られる水道橋を流れる前に、水は2つの除砂場 (沈殿) を通ります。
砂や葉などの不純物が除去される仕組みになっています。
旧市街内城壁を巡る水路はこのポスティゴ・デ・コンスエロ(現在の水道橋脇の階段の最上部広場)から始まり、洗練された分配システムにより、街の給水所や各重要な屋敷内の給水タンクに届きます。最後の区間は地中に隠された水路により、アルカサル城内に到達し、水の長い旅は終わります。
セゴビアの人々はこの全行程を水の母と呼んでいました。

データ

– 全長:16220m(堰から城門まで)
– 堰から最初の除砂場までの区間:13393m
– 2番目と3番目の除砂場の区間:794m
– サン・ガブリエル除砂場からアベンダーニョ広場の区間:776m
– 地中の水路-ガンダセ主教通りから城門まで:1220m
– 水勾配:0.3%(橋)~5.53%
– 水路の大きさ:25×30×30cm
– 最大水量:毎秒20~30リットル
– 最高位:28,10m
– 支柱の数:120
– アーチの数:167個
– アーチの内径:4,50m
– 岩の数:20400個
– 岩のおおよその体積:7500㎥

雑学

• アクエドゥクトの名前の由来はラテン語:アクア(水)+コンドゥクト(導引)の造語です。
• アクエドゥクトは様々な時と場所で言及されていますが一番古い記録はセゴビア大聖堂に残る帳簿にその名が見られます。
• 最初に芸術的に引用された記録として賢王として知られるアルフォンソ1世のカンティガ(カソリックの宗教的モノフォニック音楽に詩と挿絵をつけたもの)の中に見られます。

 

伝説

その信じられない建設の偉大さに、アクエドゥクトは悪魔が作ったという伝説が残っています。セゴビアの残る言い伝えによると、水道橋を作った“母”はローマ人ではありません。水道橋は人心の「怠惰」から生まれたとされています。 こんな伝説がセゴビアには残っています
昔々あるところに水運びとして働く少女がいました。川から街まで水のたっぷりはいった重たい水瓶を、毎日毎日運ぶのです。                                                                                                                           ある日少女はついに街の急勾配の坂道に耐えきれなくなり、力いっぱい叫びました。「もういやっ!川から街まで水路があったらいいのに!!」その熱烈な想いは悪魔を呼びました。どこからともなく現れた悪魔は少女に言います。「それなら私が手伝ってやろう。」「川から街までの水道橋を作ってやろう。でもその代わりお前は私とある契約をしなければならない。」悪魔は「明日の朝、日が昇り、一番雄鶏が啼く前に、家の門まで水を引くことができたら、お前の魂を頂く」と 少女に言いました。                                                    水運びの仕事にうんざりしていた少女は悪魔と契約をしてしまいます。 後に少女は自分のしたことの過ちを気付き、魂を失わないように熱心に祈り続けました。祈りは天に届き、街に嵐が来て、暴風雨が悪魔の仕事を邪魔します。しかし悪魔は猛然と水道橋の建設を続けます。「コッケコッコー!」突然、鶏が鳴き、街に朝日が差し込みます。「ギャァァァッッッ!!!!」悪魔は身の毛もよだつ叫び声をあげました。悪魔の仕事は失敗したのです!あと一つの岩を置いたら水道橋が完成し、少女の魂は失われるところでした。
少女は怠惰の過ちをセゴビアの人々に懺悔、告白しました。街の人々は少女の懺悔を受け入れ、水道橋に残る悪魔の痕跡、硫黄の臭いを消すため聖水を水道橋にまきました。浄めの儀式は済み、そして街のこの新しい建造物を幸運として受け入れました。                                                                                                   今でも水道橋に見られる多くの引っかき傷の痕は悪魔の爪によるものだと言われています、、、。

セゴビア大聖堂

セゴビア大聖堂

     La Santa Iglesia Catedral de Nuestra           Señora de la Asunción y de San Frutos

    • 所在地:Plaza Mayor, s/n, 40001 Segovia
    • 電話:(+34) 921 462 205
    • 開館時間: 月~土 09:30-18:00 日曜日 13:00-18:00
    • https://catedralsegovia.es

 

イントロ

聖母マリア・聖フル-トス教会は1525年から建設が始まった後期ゴシック様式の建造物です.建設担当したのは当時聖堂設計で有名なフワン・ジル・デ・オンタニョンサラマンカ市の新大聖堂、アビラ市、セビ-リア市の大聖堂も彼の手によるものです。50年を超える建設に最終的には彼の息子が引き継ぎ完成しました。      この大聖堂以前にも街の北端にあたるアルカサル城の庭園内に貴族とその軍隊が管理する大聖堂がありましたが、1520年のコムネロス大反乱により破壊されました。大聖堂の西門はちょうどその正面玄関としてシンボルである聖母マリアの彫刻が施されています。彫刻家はフアン・ぐアス。フランス生まれのぐアスは他にもアビラ市大聖堂の正面玄関、トレド市のサンファンデロスレイエス修道院などの有名な作品を数多く残した建築家・彫刻家です。

美術・装飾

大聖堂の塔はその偉大な高さから良く知られる歴史建築の一つです。街の一番高い位置にあり、時を告げる鐘と街を見通す塔として名声を得続けています。  南には聖ヘロテオ門と呼ばれ初代司教に由来した門があり、北には聖フル-トス門と呼ばれ街の第一守護聖人に由来します。また北門には聖フル-トスの彫像がおかれています。その美しさと機能を兼ね備えた壁を支える柱に施された彫刻や美しいドーム、そして華麗な尖塔は中世から人々を魅了してきました。

建築・設備

大聖堂は3つの部分から成り立ち、半円形の先頭部分、回廊、そして礼拝堂です。その壮大さと調和した設計様式は内装も現れています。  フランシスコ・エランスの聖母マリアのステンドグラスは特に有名で、ルネッサンス期の重要な作品の一つに数えられます。                                                                                祭壇レリーフ、聖歌隊の座席は旧大聖堂に属していたもの、美しいバロックオルガンや装飾格子、祭壇、聖フル-トスの遺物の残るとされる聖櫃など新古典派の芸術を見ることができます。身廊周辺わきに設置された18もの礼拝祭壇には重要な絵画や彫刻が並びます。

総論

セゴビア大聖堂はその威厳さと美しさから大聖堂の貴婦人と呼ばれスペインの人々から親しまれています。中世カトリックとルネッサンス様式の芸術作品の多く遺るまさに博物館さながらです。また街の見渡す塔の最上階にも上ることができます。セゴビアに訪れた際には見逃せない重要なカトリック・歴史遺跡の一つです。

 

 

王立造幣局博物館:ロイヤルミント・セゴビア  

Casa Moneda Alcazar

イントロ

    Real Casa de la Moneda Segovia

  • 所在地:Calle la Moneda, s/n, 40003 Segovia
  • 電話:(+34) 921 47 51 09
  • 開館時間: 水~土 10:00-14:00 / 16:00-18:00
                    日曜日 10:00-14:00
  • www.casamonedasegovia.es
Molinos casamoneda

イントロ

ロイヤルミント・セゴビアは中世のオートメーション産業の歴史と文化を俯瞰するこのできる貴重な歴史遺跡です。エレスマ川の水力を利用した通貨鋳造オートメーション設備として当時ヨーロッパで先進的な設備と技術を誇りました。1580年スペイン王:フィリッペ2世により建設を命じられ、当時の先端技術であったドイツの水力システムを導入。ここにヨーロッパ随一の産業設備が誕生しました。

セゴビア金貨鋳造の歴史

セゴビアロイヤルミント博物館は、私たちの時代までその姿を当時のまま残す数少ない建造物の一つです。 エレスマ川の岸辺に位置し、建設はフィリッペ2世の命をうけ、ホアン・デ・エレラが行いました。 セゴビア王立造幣局はスペインに硬貨鋳造技術をもたらした先駆けの存在です。
セゴビアの硬貨鋳造の歴史は驚くべきことに大変古く紀元前20年(弥生時代後期)も前のローマ時代まで遡れます。硬貨の鋳造にはセゴビアの刻印が残され、これがセゴビアが街としてローマ時代に存在していた証拠となっています。
1136年アルフォンソ7世は、カステージャ王国、ガリシア王国、レオン王国の王を兼ね、全スペイン帝国の王でしたが、旧大聖堂建設に、セゴビアで作られた全硬貨の4分の1を寄付したことが記録に残っています。この記録は中世工業史の中で極めてセゴビアが重要であったことの証拠となっています。
1455年エンリケ4世は“新”造幣局を設立します。(旧造幣局は姿を消しました。)この新造幣局で造られた硬貨にはセゴビア水道橋:アクエドゥクトの小さなマークは初めて刻印されました。このアクエドゥクト硬貨とでも呼べるお金は400年以上にわたり使われてきました。旧造幣局でハンマーを用いて鋳造された硬貨は1681年を最後に姿を消します。これより新しい技術革命により造られた硬貨が使われるようになります。

歴史・中世史

1583年、フィリッペ2世は自分専用の造幣局をエレスマ川のほとり、アルカサル城の足元に設立します。紙製造のために買った水車式圧縮機を利用し、建造しました。
設計はホアン・デ・エレラ。当時最高の技術であったドイツの水力式動力をインスブルクのハル市(オーストリア)から取り寄せて作られたものです。西洋工業史の中で極めて大きな出来事でした。
この事によりセゴビアは二つの重要な役割をスペインに対して持つことになります。一つは法律的なお金の管理であり、もう一つは工業的な、つまり物理的なお金の生産地となったのです。
約100年余りもの間、セゴビアはお金の面で重要な都市でありました。
この新しい技術革命を使った造幣局は「王の工業」と呼ばれ金貨と銀貨を鋳造していました。これによりセゴビアはヨーロッパ中に名を馳せる名誉ある工場として有名になりました。工場では硬貨鋳造とその硬貨の材料となる金属を板状にするローラー技術を水力で賄っていました。その完璧な工業生産技術はスペインを世界中に有名にしました。

歴史・近代史

1730年、金貨と銀貨の鋳造はマドリッドとセビージャに移り、セゴビアでは銅貨の鋳造のみとなりました。他にイベリア半島には7つもの造幣局がありました。1772年、ボルト式圧縮鋳造装置が導入され、水力による圧縮機は銅を板状にする事のみに使われるようになりました。1869年、セゴビアとセビージャの造幣局は閉鎖されました。それは1861年、マドリッド新しくできた蒸気機関による造幣局の開設を受けての措置でした。 当時の水力機関は金属スクラップとして処分されました。
1878年から1973年まで工場跡地は小麦粉の生産工場としてその水力車が利用されていましたが、その後完全に廃墟として放置されました。
この旧王立造幣局:ホアン・デ・エレラの設計による重要な工業施設はスペインに残る最も重要で古い歴史遺跡の一つとして数えられています。

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